虚構(フィクション)の力 あるいは偶然と想像の解剖学

私たちは、その程度はそれぞれ異なるにせよ、人生において真実を追い求める。しかし私たちは、人生のどこかのタイミングで、自分がこれまで信じてきたものが、実際には虚構でしかなかったことを思い知ることになる。それでもなお、私たちは人生を続けなければならない。それが人生である。

濱口竜介フィルモグラフィーとは、こうした人生の現実に対し、フィクションは何ができるか、あるいは何をすべきか、という問いに答えようとするものであったとしよう。とすると、(日本での)彼の最新作の『偶然と想像』は、偶然と想像により構成される虚構(フィクション)についての彼の最新の探求(の1つ)である、と、言うことができるだろう。  

 

私たちの人生は、私たちが想像する以上に、想像に満ちているものである。  

 

例えば私たちは、もし自分がこういう行動を取ったら、と、一寸先の未来を想像する。そこで想像された自らの行動の結果、もし周囲の環境(社会と言い換えてもいいだろう)を、程度の差こそあれ、破壊してしまうようであれば、その人は自身のその行動を抑圧してしまうだろう。これは、想像というものがもたらす、諦めという効果である(第一部での想像的イメージの機能)。

あるいは、もし自分がこのようであったら、と、今生きているのとは別の現在(理想と言い換えてもいいだろう)を想像することもある。その結果、そこで想像された現在と、今生きている現在との決定的な落差に打ちのめされ、その人は自分が今生きている現在を否定してしまうかもしれない。これは、想像というものがもたらす、後悔という効果である(第二部での想像的イメージの機能)。  

 

一方私たちは、それらとは別の形で日常的に想像と接している。それは、しばしば虚構(フィクション)と呼ばれるような、他者の想像のことである。

そこでは、他者としての作者によって、他者としての登場人物のために作り出された別の現実を、自身の想像でもって追体験することができる。その過程で、自分が諦めたような未来を、自分が後悔しているような別の現在を、自己と他者が渾然一体となった形で、生き直すことさえできるかもしれない(第一部と第三部での引き返しの運動)。その結果、そうした他者の想像から、諦めと後悔の自分の人生が再肯定されることもあるだろう。これは、想像というものがもたらす、エンパワーメントという効果である(第三部での想像的イメージの機能)。  

 

こうした想像の諸相を、洗練された偶然に基づく脚本でもって、『偶然と想像』は解剖してみせる。そしてそれを、ただ単に解剖して「見せる」だけではなく、観客である私たちが対面し、虚構の世界を超えて応答することを要求する(全編にわたる、ここぞという時の正面ショット)。  

 

そこでの主人公たちが全て女性であるのは、想像の持つ良い効果が女性同士の間においてのみ起こるのは、偶然では全くない。