帽子を取るか、取らないかーキングオブコント2020についてー

ジャルジャルはネタの数こそ多いものの、通底する原理はシンプルである。その線を越えるか、越えないか。越えそうで越えないその線の周りで、ジャルジャルはあの手この手で遊んでみせる。それゆえに、ジャルジャルのネタは反復を基調とする。

 

ジャルジャルの1本目は相変わらずシンプルだった。鹿沼さんか、おっさんか。歌い切れるか、切れないか。その線の周りで、二人は何度も行きつ戻りつする。しかし、単に同じことが反復されているわけではない。少しずつズラし、それらのズレが積み重なる。その繰り返しが単なる遊びではなく、細部まで徹底的に有機的に練り上げられているからこそ、反復の果てに笑いが爆発するのだ。そこまで作り込んでいるという意味で、やはり今回ジャルジャルは本気で優勝を狙っていたのだろう。

 

ニューヨークの2本目も全く同様にシンプルだった。帽子を取るか、取らないか。その線の周りで、二人は本気でぶつかり合う。こんな下らないことに意地を張り、命を張る。「帽子を取らないなら、タマ取ったらあ」。あまりの飛躍に笑わされる一方、そのやり取りのあまりの巧みさに見入ってしまう。帽子を取る取らないに命をかける。やはりここにも、ニューヨークの信念が感じられる。

 

しかし、ジャルジャルの2本目はそれらとは異質だった。ネタの中心となるのは、タンバリンが鳴るか鳴らないか、脱出できるかできないか、ではない。そこで焦点を当てられていたのは、単なる変なキャラ、あるいは率直に言うと、使えない奴である。福徳演じる男性は、後藤演じる有能な強盗と共に部屋に入ったものの、どうしてもタンバリンを鳴らしてしまう。絶対に静かにしなくてはいけないのに、どうしてもそう振る舞えず、あるいはそもそも、しなければいけないことを認識すらしていないのかもしれない。しかし初めは一人だけが使えない変なキャラであったが、二重の金庫にタンバリンを入れているように、強盗先の会社すら変であることが判明していく。そして有能な人材であったはずの後藤も、一度は一人で脱出に成功しつつも、結局は福徳のもとに戻る。「こんな愛おしい奴置いてける訳ないやろ!」。そして二人はタンバリンを鳴らしながら、逮捕されないことを願いつつ愛おしく退場する。

 

帽子を取るか、取らないか。こんなくだらないことで遊び続け、人生をかけてきたのはジャルジャルもニューヨークもおそらく同じである。実際、一番笑ったのはジャルジャルの1本目で、一番かっこよかったのはニューヨークの2本目である。しかし、一番心に残ったのはジャルジャルの2本目である。「こんな愛おしい奴置いてける訳ないやろ!」。使えるか使えないか、ではない。こんな愛おしい奴を、置いていかないでほしい。