祭りのあとに、君たちはどう生きるかー映画『君たちはどう生きるか』についてー

主人公の眞人は、祭りのあとを生きている。母を失った、母を助けられなかったという過去が、彼の現実を捉えて離さない。彼は自分で自分を傷つける。新しい母も受け入れられない。

 

そんな彼に、「下の世界」が誘いかける。それは幻想であり、フィクションであり、内的世界であり、現実の源でもある。「下の世界」には入り口がいくつもあり、祭りのあとを生きる人々が誘い込まれていく。彼はそこで様々な経験をし、他者もまた自分と同じような傷を抱えていることを知る。

 

「下の世界」の創造者は、眞人に後継をお願いする。争いに満ちた現実ではなく、悪意のない「下の世界」を創造するのだと。しかし眞人は、仲間と共に、現実を生きる決意をする。

 

「下の世界」など存在しなかったかのように、現実は続く。人々は「下の世界」のことなどすぐ忘れる。眞人は『君たちはどう生きるか』と共に、自分自身の傷と新しい母を受け入れ、現実を生きていく。

虚構(フィクション)の力 あるいは偶然と想像の解剖学

私たちは、その程度はそれぞれ異なるにせよ、人生において真実を追い求める。しかし私たちは、人生のどこかのタイミングで、自分がこれまで信じてきたものが、実際には虚構でしかなかったことを思い知ることになる。それでもなお、私たちは人生を続けなければならない。それが人生である。

濱口竜介フィルモグラフィーとは、こうした人生の現実に対し、フィクションは何ができるか、あるいは何をすべきか、という問いに答えようとするものであったとしよう。とすると、(日本での)彼の最新作の『偶然と想像』は、偶然と想像により構成される虚構(フィクション)についての彼の最新の探求(の1つ)である、と、言うことができるだろう。  

 

私たちの人生は、私たちが想像する以上に、想像に満ちているものである。  

 

例えば私たちは、もし自分がこういう行動を取ったら、と、一寸先の未来を想像する。そこで想像された自らの行動の結果、もし周囲の環境(社会と言い換えてもいいだろう)を、程度の差こそあれ、破壊してしまうようであれば、その人は自身のその行動を抑圧してしまうだろう。これは、想像というものがもたらす、諦めという効果である(第一部での想像的イメージの機能)。

あるいは、もし自分がこのようであったら、と、今生きているのとは別の現在(理想と言い換えてもいいだろう)を想像することもある。その結果、そこで想像された現在と、今生きている現在との決定的な落差に打ちのめされ、その人は自分が今生きている現在を否定してしまうかもしれない。これは、想像というものがもたらす、後悔という効果である(第二部での想像的イメージの機能)。  

 

一方私たちは、それらとは別の形で日常的に想像と接している。それは、しばしば虚構(フィクション)と呼ばれるような、他者の想像のことである。

そこでは、他者としての作者によって、他者としての登場人物のために作り出された別の現実を、自身の想像でもって追体験することができる。その過程で、自分が諦めたような未来を、自分が後悔しているような別の現在を、自己と他者が渾然一体となった形で、生き直すことさえできるかもしれない(第一部と第三部での引き返しの運動)。その結果、そうした他者の想像から、諦めと後悔の自分の人生が再肯定されることもあるだろう。これは、想像というものがもたらす、エンパワーメントという効果である(第三部での想像的イメージの機能)。  

 

こうした想像の諸相を、洗練された偶然に基づく脚本でもって、『偶然と想像』は解剖してみせる。そしてそれを、ただ単に解剖して「見せる」だけではなく、観客である私たちが対面し、虚構の世界を超えて応答することを要求する(全編にわたる、ここぞという時の正面ショット)。  

 

そこでの主人公たちが全て女性であるのは、想像の持つ良い効果が女性同士の間においてのみ起こるのは、偶然では全くない。

ケアにおける非対称的関係性について

ここ数週間、ドイツで行われているドイツ語の授業を、オンラインで日本から受けている。そこではチリ人も数人受講していて、あまりの時差に今という状況の面白さを感じる日々であった。

 

そんな中、授業はオンラインからオンサイトへと移行した。しかし、急遽カフカ的状況に陥り、他の学生がドイツへ到着する中、自分一人だけがオンラインで日本から参加することになってしまった。その実施方法は極めてシンプルである。私と先生がZoomで繋がり、先生は自身のPCを教室に置き、その教室に他の学生は集まり、一斉に受講するのである。

 

とはいえ、一人だけオンラインの参加ということで、様々な不便がある。

まず一つは、日本とドイツという距離ゆえか、ホワイトボードの板書の文字が全く見えない。先生が色々と書いていることはわかるが、どう頑張ってもその文字が読めない。しかしオンライン受講は私だけなので、あまり先生の手を煩わせたくない。

さらに、PCで映るのは一方向だけである。先生は操作するために自分の近くにPCを置いており、つまり教室はホワイトボードから見て、先生、PC(私)、他の学生、という構図となっている。そのため、学生の方を見るためには先生にPCの向きを変えてもらう必要があり、そういった機会はほぼ数分ごとにあった。

 

こういった不便を耐えながら初日を終え、二日目の今日、さらなる困難が訪れた。まさかの、野外でコミュニケーションを取る時間が始まったのだ。もちろん私は自分では全くどうしようもないので、先生や他の学生に移動してもらい、声をかけてもらい、気を使ってもらうだけの存在である。

やはり、色々やってもらうのは申し訳なく思ってしまう。自分でできないのが不甲斐ない。こんな迷惑をかけるならいっその事参加できなくてもいい。こういった思いから居心地の悪さを強く感じていた時、あることに気がついた。まさにこういったことを、補助や介護を必要とする方々は感じて生きているのではないか?

 

とすると、そういった方々が総じて優しくなるのもわかる。しかし、このような関係は両者にとって健全でないような気もする。少なくとも私は、とてつもなく居心地が悪かった。社会的包摂というが、当事者にとって果たして望ましい状況がもたらされるのだろうかと考えてしまう。現状何も明確な答えは持っていないが、いわゆる当事者の気持ちの一端を共有できた気はした。今朝の朝日の記事の、迷惑をかけるのが普通という言葉を思い出す。これを機に、何か新しい自分が生まれたらと思う。

帽子を取るか、取らないかーキングオブコント2020についてー

ジャルジャルはネタの数こそ多いものの、通底する原理はシンプルである。その線を越えるか、越えないか。越えそうで越えないその線の周りで、ジャルジャルはあの手この手で遊んでみせる。それゆえに、ジャルジャルのネタは反復を基調とする。

 

ジャルジャルの1本目は相変わらずシンプルだった。鹿沼さんか、おっさんか。歌い切れるか、切れないか。その線の周りで、二人は何度も行きつ戻りつする。しかし、単に同じことが反復されているわけではない。少しずつズラし、それらのズレが積み重なる。その繰り返しが単なる遊びではなく、細部まで徹底的に有機的に練り上げられているからこそ、反復の果てに笑いが爆発するのだ。そこまで作り込んでいるという意味で、やはり今回ジャルジャルは本気で優勝を狙っていたのだろう。

 

ニューヨークの2本目も全く同様にシンプルだった。帽子を取るか、取らないか。その線の周りで、二人は本気でぶつかり合う。こんな下らないことに意地を張り、命を張る。「帽子を取らないなら、タマ取ったらあ」。あまりの飛躍に笑わされる一方、そのやり取りのあまりの巧みさに見入ってしまう。帽子を取る取らないに命をかける。やはりここにも、ニューヨークの信念が感じられる。

 

しかし、ジャルジャルの2本目はそれらとは異質だった。ネタの中心となるのは、タンバリンが鳴るか鳴らないか、脱出できるかできないか、ではない。そこで焦点を当てられていたのは、単なる変なキャラ、あるいは率直に言うと、使えない奴である。福徳演じる男性は、後藤演じる有能な強盗と共に部屋に入ったものの、どうしてもタンバリンを鳴らしてしまう。絶対に静かにしなくてはいけないのに、どうしてもそう振る舞えず、あるいはそもそも、しなければいけないことを認識すらしていないのかもしれない。しかし初めは一人だけが使えない変なキャラであったが、二重の金庫にタンバリンを入れているように、強盗先の会社すら変であることが判明していく。そして有能な人材であったはずの後藤も、一度は一人で脱出に成功しつつも、結局は福徳のもとに戻る。「こんな愛おしい奴置いてける訳ないやろ!」。そして二人はタンバリンを鳴らしながら、逮捕されないことを願いつつ愛おしく退場する。

 

帽子を取るか、取らないか。こんなくだらないことで遊び続け、人生をかけてきたのはジャルジャルもニューヨークもおそらく同じである。実際、一番笑ったのはジャルジャルの1本目で、一番かっこよかったのはニューヨークの2本目である。しかし、一番心に残ったのはジャルジャルの2本目である。「こんな愛おしい奴置いてける訳ないやろ!」。使えるか使えないか、ではない。こんな愛おしい奴を、置いていかないでほしい。