ケアにおける非対称的関係性について

ここ数週間、ドイツで行われているドイツ語の授業を、オンラインで日本から受けている。そこではチリ人も数人受講していて、あまりの時差に今という状況の面白さを感じる日々であった。

 

そんな中、授業はオンラインからオンサイトへと移行した。しかし、急遽カフカ的状況に陥り、他の学生がドイツへ到着する中、自分一人だけがオンラインで日本から参加することになってしまった。その実施方法は極めてシンプルである。私と先生がZoomで繋がり、先生は自身のPCを教室に置き、その教室に他の学生は集まり、一斉に受講するのである。

 

とはいえ、一人だけオンラインの参加ということで、様々な不便がある。

まず一つは、日本とドイツという距離ゆえか、ホワイトボードの板書の文字が全く見えない。先生が色々と書いていることはわかるが、どう頑張ってもその文字が読めない。しかしオンライン受講は私だけなので、あまり先生の手を煩わせたくない。

さらに、PCで映るのは一方向だけである。先生は操作するために自分の近くにPCを置いており、つまり教室はホワイトボードから見て、先生、PC(私)、他の学生、という構図となっている。そのため、学生の方を見るためには先生にPCの向きを変えてもらう必要があり、そういった機会はほぼ数分ごとにあった。

 

こういった不便を耐えながら初日を終え、二日目の今日、さらなる困難が訪れた。まさかの、野外でコミュニケーションを取る時間が始まったのだ。もちろん私は自分では全くどうしようもないので、先生や他の学生に移動してもらい、声をかけてもらい、気を使ってもらうだけの存在である。

やはり、色々やってもらうのは申し訳なく思ってしまう。自分でできないのが不甲斐ない。こんな迷惑をかけるならいっその事参加できなくてもいい。こういった思いから居心地の悪さを強く感じていた時、あることに気がついた。まさにこういったことを、補助や介護を必要とする方々は感じて生きているのではないか?

 

とすると、そういった方々が総じて優しくなるのもわかる。しかし、このような関係は両者にとって健全でないような気もする。少なくとも私は、とてつもなく居心地が悪かった。社会的包摂というが、当事者にとって果たして望ましい状況がもたらされるのだろうかと考えてしまう。現状何も明確な答えは持っていないが、いわゆる当事者の気持ちの一端を共有できた気はした。今朝の朝日の記事の、迷惑をかけるのが普通という言葉を思い出す。これを機に、何か新しい自分が生まれたらと思う。