メモ雑感

主に映画理論を勉強している学生です。現在ストックホルム大学にて留学中で、アウトプットの機会が皆無なので何かを綴っていきます。

映画的身体

Steven Shaviroの『映画的身体(1993)』が、装置論を読んで考えていたことと完全に一致していて(そしてポストモダンっぽい思考を鏡のようにその中に見てしまい)少し萎えた。

<内容>

・大きな狙いは当時(のおそらく少し前)映画理論界隈で大流行していた記号学的ないし精神分析的理論を逆から捉えなおすこと(それらをa phobic constructとみなす)。

→すなわちイメージとは欠如ではなく、weird fullnessである

(ex, ブランショはイメージとは死体のようlike a cadaverだと言っているらしい)

・cinematic imagesとは”出来事events”であり、形而上学的異化ないしイデオロギー的錯覚delusionである

(ex, バタイユ的には"sacrificial mutilation"らしい)

ベンヤミン、ヴェルトフ、ブレッソンドゥルーズはバザンから(非-人間的な)映画的知覚を見出した(こんな書き方はされていないが)(もちろん時系列もおかしい)

・(映画経験の)快楽は……同一化の破壊と客体化にあり、主体的安定の掘り崩し、脱-自然化(脱-デカルト化de-Cartesianize)にある

→この後続いて、アウラの崩壊、tactile、クラウスの"antivision"、異化、ブランショの受動性、そしてドゥルーズを援用しつつマゾヒズム論へ

・また編集によってイメージは”ヒュームの流動的認識論(William Flesch1987)”(つまり因果関係がないということ)に変わるとも言っている

 

またジャーナルに思弁的実在論と絡めたChelsea Birks”客観性、思弁的実在論、映画的装置(2018)”を読み直す。

<内容>

・SRなどの最近の思想潮流は映画理論から学ぶことがある

(ex, バザン、クラカウアー、特にボードリー)

・SRは最近フィルムスタディーズでも少し流行ってて、生態系などに関する倫理的議論が主流らしい

・彼?によるとバザンは、映画は客観性の主観的印象を与えるのであって、映画的リアリズムは主観性と客観性の矛盾であるらしい

ランシエール『映画的寓話』のドゥルーズ論の弁証法(意志と無意志)と似てそう?

・彼?によるとボードリーにとって、映画との出会いは客観=客体的パースペクティブの主観=主体的印象(illusion, phantasmatization)であると

 

<思うこと>

・単純にこんなことばかり言ってても生産性がないなあと感じた(上の二つには25年差があるのに同じような話である)

・ふと思い立ってハンセンの『映画と経験』の序文を読んでいたらそっちの方が断然面白かったのでやるなら『シネマ』の(映画理論の文脈からの)読み直し